今は亡き名優達のエピソードまとめ

一時代を築いた、映画俳優たちの逸話をまとめました。人となりが良くわかる、温かい話からぶっ飛んだ話までいろいろあります。

勝新太郎

勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年11月29日 – 1997年6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。市川雷蔵とともに大映の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。本名は奥村 利夫(おくむら としお)。

勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、不祥事が起こっても多くのファンから愛された。

映画座頭市がヒットし始めの頃、飲みに出かけた勝新は、
店の娘をみんな連れて次の店に出かけ、その店の娘も全て連れて店を変え
行く店行く店みんな引き連れ飲み歩きました。
そして引き連れた人間は何百人にも膨らみ、払いは全てもちろん勝新。
その日一晩で勝新はなんと、2億円の借金をしました。
出典 勝新太郎豪快私生活: アメカジと古い車がすきだ。

高熱で苦しむ妻・玉緒を少しでも元気づけようと思った勝は、玉緒の好きな渡哲也の歌声を聞かせようと画策。渡が居そうな銀座の飲み屋を一軒一軒しらみつぶしに探し回り、ようやく渡を見つけると眼前でいきなり土下座。顔を上げるように渡が促すも、高熱で苦しんでいる玉緒のために一曲歌ってほしい、と土下座のまま懇願。
出典 勝新太郎 – Wikipedia

大先輩のそのような姿を見た渡は二つ返事でこれを快諾。店の電話から玉緒のために『くちなしの花』を歌った。玉緒はこのエピソードを、破天荒な勝だが嫌いになれなかった理由、として度々挙げている。

ある日勝新は、息子を連れてキャンピングカーの、展示会に出かけました。
10人も乗れるような大きめのキャンピングカーを気に入った息子を気にもせず、勝新が向かったのは、展示会最大のキャンピングカー。
20人以上乗れるようなすごい物らしかったのですが、息子が、「こんな大きいのいらないよー」と言うと、勝新は、「この一番大きいのじゃなきゃだめなんだ!」と声を荒げ、息子が「どうして?」と聞くと、「ばかやろう!俺は勝新太郎だぞ!」と言ったそうです。
出典 勝新太郎豪快私生活: アメカジと古い車がすきだ。

ブレイク前のMr.マリックのショーに感激し、そのときの全ての所持金の約50万円をチップで渡した事がある。
出典 勝新太郎 – Wikipedia

1990年1月16日、ハワイのホノルル空港で、下着の中にマリファナを隠し持っていたという容疑で勝さんは、現行犯逮捕されてしまいました。そして、急遽、ハワイで記者会見が開かれることに。そこで勝さんは、「なぜ、パンツの中に入っていたかわからない。今後は同様の事件を起こさないよう、もうパンツをはかないようにする」とコメントしたのです。
出典 SmaSTATION!!

それから1年半後。ようやく帰国することになった勝さんは、コメントを取ろうと同じ飛行機に乗っていたマスコミを集めて、開口一番、「総理大臣の代わりはいるが、勝新太郎の代わりはいない」と言い放ちました。帰国後、大麻事件で、刑事たちから取調べを受けた時には、「(大麻を)誰かにもらったんだろ!」という刑事に対して、「そういうことにしてもいいけど、そうなると、トップシーンはいいけど、ラストはおかしくなるよ!」と受け答え。

ある日、後輩の役者、黒沢年雄さんを乗せ、ドライブに出かけたときのこと。運転していた勝さんは、何を思ったのか買ったばかりのリンカーンを電柱にぶつけたのです。そして、言いました。
「どうだ、驚いただろう!」と。なんと、黒沢さんを驚かすためだけに、買ったばかりの高級車をスクラップにしてしまったのです。
出典 SmaSTATION!!

がんを公表した会見でタバコを吸っていました。
出典 勝新太郎の豪快伝説を教えてください。 – がんを公表した会見… – Yahoo!知恵袋

「医者からタバコをやめろと言われてる。」と、言いながら吸っていました。

1967年に、勝さんは大映を飛び出し、自ら勝プロを設立します。それまでは、競合の映画会社に所属していたため共演できなかった、石原裕次郎や三船敏郎らと夢の共演も叶うようになりました。そんな飛ぶ鳥を落とす勢いの勝さんに、さらなる吉報が舞い込んだのです。あの黒澤明監督から、映画『影武者』への出演オファーが直々に届いたのです。黒澤監督は、「主役の信玄と影武者の1人2役が出来るのは、勝新太郎しかいない」と考えていました。また、前々から黒澤映画への出演を熱望し、「黒澤さんの映画では本物の矢が飛んでくるそうだが、その矢に当たって死んでも本望だ」とまで、話していた勝さんは、このオファーをとても喜んでいたそうです。
そして、撮影開始。勝さんは役作りの参考にするため、自分の演技を撮影しようと、現場にビデオカメラを持ち込んだのですが、これが黒澤監督のカンに触り、撮影を止めるようにと注意を受けます。これを聞いた勝さんは、そのまま撮影所を出て行ってしまいました。
翌日、黒澤監督は記者会見を開き、一方的に勝さんの降板を発表。その時、監督は沈痛な面持ちでこう言いました。「監督が2人いたのでは、映画は撮れない」と。後日、勝さんは、『勝アカデミー』の授業で、黒澤映画を降板した本当の理由を、「例え世界の黒澤だろうと、こっちは天下の武田信玄だ。武田信玄が謝るはずがない」と話したそうです。

飲酒運転なんて日常茶飯事だったね。勝さん、“みんな乗ってけ!”って自分で運転して酒飲みに行くんだもん。検問ひっかかっても“俺だよ俺”の一言で、通過してしまう(笑い)。何軒もハシゴして、それでも翌日はいい芝居を見せる。正真正銘の“役者バカ”でした
出典 勝新太郎 飲酒運転で検問ひっかかっても「俺だよ俺」で通過(NEWS ポストセブン) – Yahoo!ニュース

最高級の牛肉を一口食べた次の瞬間、勝さんはそれを“ペッ!”と吐き出しました。「いつからこんな物を出すようになったんだ。お前のとこは…」。そのひとことに場は凍りつき、「少々、お待ちを」と板前さんが慌ててその場を去りました。それを見た勝さんは、「今の顔、見たか?本当に慌てた人間の顔ってのは、ああいう顔なんだ。よく覚えとけ!」と、涼しい顔で話したそうです。
出典 SmaSTATION!!

主催していた映画セミナー『勝アカデミー』の生徒だった小堺一機さんが、勝さんに連れられて、高級料亭に食事に行ったときのこと。

石原裕次郎

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 – 1987年(昭和62年)7月17日)は、日本の俳優、声優、歌手であり、司会者やモデルといったマルチタレント。実業家・ヨットマンとしても活動していた。身長178cm、血液型はA型。愛称はタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー。石原軍団総帥、石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長。

兄は政治家で作家の石原慎太郎。

石原プロが倒産の危機のときには家のない社員全員に家を建ててプレゼントとしたことがある。
出典 石原裕次郎 – Wikipedia

現在でも石原プロのイベントなどで名物となっている炊き出しは、裕次郎が考案したものである。
出典 石原裕次郎 – Wikipedia

日本では力道山と三橋美智也と裕次郎の3人だけと言われるメルセデス・ベンツ・300SL(〈W198〉ガルウィングクーペのオーナーだった。
出典 石原裕次郎 – Wikipedia

ロールス・ロイス・シルヴァースピリットやキャデラックなど複数の高級車を所有するカーマニアであった。

日本の芸能界で初めて記者会見を開いた。
出典 石原裕次郎 – Wikipedia

当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後の妻まき子である北原三枝とともにアメリカに逃れていたが、元日活社長堀久作の説得に応じ帰国、羽田空港の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされる。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされる。

ハワイで過ごす芸能人の先駆けとなった人物でもある。
出典 石原裕次郎 – Wikipedia

三船敏郎

三船 敏郎(みふね としろう、Toshiro Mifune、1920年4月1日 – 1997年12月24日)は、日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。

個人的に、この方のエピソードが一番好きです。

トップスターながら偉ぶらず、付き人もなしで、自分で車を運転して撮影所に現れて、誰に対しても気取らずに親しんで挨拶をした。エキストラにも挨拶をするので、スタッフがあわてたという。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

『用心棒』における三船の殺陣は凄まじく早かったことを黒澤明は後に述べている。撮影時に三船が本気で刀を振ったら速すぎて太刀筋がカメラに映らなかった。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

フィルムのコマひとつひとつには光が流れているだけのように見え、映してみてはじめて刀の動きがわかる程度だった。

黒澤映画の撮影では、長時間たくさんのライトにさらされることがある。ライトの熱で着物が焦げ、煙が出ることもあったが、三船はそれでも微動だにせず待機していたという。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

このように、どの現場でも待つことを嫌がらず、苦情もまったく言わなかった。スタッフにもプレッシャーがかからないようにしていた。

撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識でも知られた。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

あらかじめ台本を全部覚えてくるので現場に台本を持って来ず、その影響で東宝ではそれが当たり前の慣習となった。
三船のノートには、細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれており、『七人の侍』の菊千代や『用心棒』の桑畑三十郎などの地でやっているような演技は、実は周到に計算されたものだった。

1957年(昭和32年)、『蜘蛛巣城』を主演。この撮影時、黒澤が三船に向かって本物の矢を射させた。後に三船は酒に酔った時にこのことで激怒して散弾銃を持って黒澤の自宅に押し掛けたというエピソードがある。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

本当に人を斬る気迫で殺陣をしており、殺陣の最中、三船は呼吸を止めていて、カットの声がかかると肩で息をするので、共演した司葉子が当時を振り返り、撮影中の三船は命がけで演技をしていたと語ったエピソードもあるほどである。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

ロケが終わると、ライトの片づけ等を手伝うなど気さくな性格だった。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

それをアメリカでもやった際に組合に「俺たちの仕事を奪う気か!」と怒られたという。

三船がアメリカに行った際に、空港で空港税関係員に「Do you have any spirits?(あなたは蒸留酒を持っていますか?)」と質問され、「Yes! I have Yamato-Damashii!(そうだ、俺は大和魂を持っている)」と堂々と答えたことがある。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

“世界のミフネ”となり世界中を行き来するようになっても、特別扱いを嫌って、付き人もつけずに飛行機に乗った。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

1958年の狩野川台風においては、東京都内では仙川が氾濫し当時自宅のあった成城近隣も水没。近隣の水没した世帯の取り残された住人18名を、自宅に所持していたモーターボートで成城警察署の署員と共に救出した。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

後日、消防庁が感謝状の授与式を大々的に行おうとしたが、三船は断りマスコミへの公表も差し止めた。

ロケ隊において皆に混じって荷物の整理を手伝う三船に、淀川長治が「あんたはそういう事しちゃ駄目よ、スターなんだから。」と言われるも三船は「だって俺、手空いてるもん?」と言ってせっせと作業を続けたというエピソードがある。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

戦争で徴兵されていたころ、三船は喧嘩になると、階級章を外して、「俺も外すから、お前も外せ。お互い階級章をはずして、人間対人間で行こう!」と言って、タンカを切り、そうすると、相手は意気消沈してしまったという。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

『椿三十郎』の撮影で、2月の寒いときに切られ役たちが、バケツ一杯の血糊をかけられ凍えながら横たわっていた。そのことを知りながら、若侍役の役者がラーメンを夜食に食ベていたのを知り、その後の若侍を殴るシーンの撮影で、本気で殴ったという。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

寒い中で屍になって横たわってる人間がいるのに、自分らばかりが暖かいラーメンを食うなんて冗談じゃないと、あとで叱ったという。

児玉清が新人時代にロケバスに乗り遅れてしまった時、たまたま通りかかった三船が、オープンカーで児玉をロケ現場まで送った。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

酒癖の悪さでも知られ、飲むと性格が一変した。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

酔ってタクシー内で安藤昇に殴りかかると逆に車外へ蹴飛ばされ更に殴り捲られ完全に伸びてしまう、翌日は派手に顔が腫れたままで撮影にならなかったこともある[84]。浜美枝は、三船について「お酒さえ入らなければ、本当にやさしくていい人なんですけどねえ」と語っている[85]。また、奇行に走る傾向もあり、監督の家でスタッフと飲んで酔っ払い、居間の太い梁によじ登って懸垂を始めたり、夜遅くに家の近所を奇声を上げながら走り回ったり、中には映画用の小道具である槍を持ち出して石原裕次郎の家に果し合いに行ったという冗談のようなエピソードもある。

映画の撮影の合間に砧撮影所から自宅まで甲冑姿のまま車を運転して帰り、周囲の度肝を抜いた。
出典 三船敏郎 – Wikipedia

丹波哲郎

丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 – 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。本名は丹波 正三郎(たんば せいざぶろう)。
俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優。テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わった。オールスターの超大作に相応しい映画では常連の一人として、権力者など上層部の人物役で特別出演もした。

俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。しかし「こんなことはタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。
出典 丹波哲郎 – Wikipedia

葬儀が行われた際、愛人とその子供(元女優の江畑絢子と息子である森正樹)が弔問に訪れた。義隆は気遣って席を外し、二人に別れの一時を与えた。丹波が二つの家族を分け隔て無く愛したゆえの出来事と言える。

出演依頼は「二度断り三度目に応諾する。5ページ以上の台詞がある仕事は受けない」というスタイルを守っていた。
出典 丹波哲郎 – Wikipedia

マネージャーの条件は「仕事を取って来ないこと」で、仕事を取りすぎるという理由で解雇された者もいた。
出典 丹波哲郎 – Wikipedia

丹波の乗った車が交通違反で停められた際、丹波が警察官に「Gメンの丹波だが」と対応。
出典 丹波哲郎 – Wikipedia

この時の違反はスピード違反と語られることが多いが、丹波は一方通行の逆走だったと語っている。

はこれまでの人生で、あまりに多くの女性とヤリすぎたため、 自分の周りの女性の誰とやったのか、やってないのかを把握していないとのこと。 そこで、丹波先生は自分の周囲の女性に手当たり次第、 「おい、○○。おれ、お前とやったことあったか?」 という質問を連発していたらしい。
出典 大横綱・丹波哲郎伝説 – 琥珀色の戯言

三國連太郎

三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年(大正12年)1月20日 – 2013年(平成25年)4月14日)は、日本の俳優。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。群馬県太田市生まれ。身長181cm。

釣りバカ日誌シリーズでは「スーさん」の愛称で親しまれた。

いわゆる役者バカであり、怪優・奇人とも称される。
出典 三國連太郎 – Wikipedia

老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたエピソードはよく知られている。
出典 三國連太郎 – Wikipedia

浮浪者の心理を探るため、荒んだ格好でカップルを脅したことがあり、交番に駆け込まれて逮捕されそうになったという。
出典 三國連太郎 – Wikipedia

レイプシーンなどでも、リハーサルから本気で暴行することで知られ、親しい女優でさえおびえたという。
出典 三國連太郎 – Wikipedia

岡田真澄

岡田 眞澄(おかだ ますみ、1935年9月22日 – 2006年5月29日)は、フランス生まれの日本の俳優・タレント。

愛称はファンファン。

ソ連崩壊後のロシアに旅行に行った際には、本物のスターリンと間違われ、スターリン時代を知る老人達が彼に対してひれ伏したという逸話もある。
出典 岡田眞澄 – Wikipedia

菅原文太

菅原 文太(すがわら ぶんた、1933年〈昭和8年〉8月16日 – 2014年〈平成26年〉11月28日)は、日本の俳優、声優、ラジオパーソナリティ・農業従事者。宮城県仙台市出身。愛称は文ちゃん・文太兄い。

代表作は映画『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズ。どちらも日本映画史に残る配給収入を上げた。

仁義なき戦いの公開直後に自宅に少年が訪ねて来て「おやじさん、山守は絶対、俺が撃ってきますけん」と言うので「ありがとう、まあ、ラーメンでも食いに行こう」と連れ出して説得して帰ってもらった。
出典 菅原文太 – Wikipedia

文太さんの自宅の冷蔵庫の中には、大量の点滴用の液剤が入っていたそうです。それを見た人がビックリして聞いたら、文太さん、ナント、”飲むんだよ”と言って、点滴の袋をハサミで切り、コップに注いで飲み始めたというんですよ。
出典 【追悼秘話】名優・菅原文太 知られざる壮絶人生 | 日刊大衆 | (3/3)

菅原文太は、疲れがたまると点滴用の液剤をそのまま飲んでいた!

若山富三郎

若山 富三郎(わかやま とみさぶろう、1929年9月1日 – 1992年4月2日)は、日本の俳優・歌手・テレビドラマ監督。
映画・テレビドラマ・演劇で幅広い役柄を演じ、特に殺陣に関しては当代随一の名手と評された。
父は長唄三味線の杵屋勝東治、弟に勝新太郎、息子は若山騎一郎、前妻は藤原礼子。

数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評され、弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにかなわない」と証言している。
出典 若山富三郎 – Wikipedia

面倒見のいい反面、非礼な態度や意にそぐわない相手には手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。
出典 若山富三郎 – Wikipedia

大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役に対しては優しかった。

親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。
出典 若山富三郎 – Wikipedia

若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で自他共に認める名うての甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮溶かし、食パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。

あるとき東映の若山の楽屋の隣から工事の音がし始めた。若山の取りまきが聞いてきた話では、高倉健が自分の楽屋が狭いため、拡張工事をしていると言う。それを聞き激怒した若山は「そっちがそんな勝手するなら俺だって」と、音のする壁と反対側の壁を自ら叩き始め楽屋を広くしようとした。
出典 若山富三郎 – Wikipedia

若山に壁を叩かれた隣の部屋では大川橋蔵が弁当を食べていたが、びっくりして飛び出してきた。大川が「いったい、何やってるんですか?」と尋ねると、若山は「壁壊して部屋広くするんや」と返答。大川は呆れ気味に「それはいいですけど、僕の部屋はどうなるんですか?」と尋ねると、若山は正気に戻ったのか「あ、すんまへん」と謝った。

若山が下戸であることを知らなかった高倉は、日頃のお礼の意味で撮影前の若山に日本酒を一瓶贈ったことがあった。若山は困惑しながらも高倉の思いに応えようと快く受け取り、高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。しかし飲んだ直後に卒倒し当日の撮影は中止。高倉はひたすら平身低頭、謝罪したという。
出典 若山富三郎 – Wikipedia

ある時東映撮影所で大喧嘩になり、若山は「ぶち殺してやる」と机を持ち上げて相手に投げつけようとした。若山を止めてもらおうと呼び出された山城が駆けつけると、若山は机を振り上げた姿勢のまま固まって待っていた。
出典 若山富三郎 – Wikipedia

山城は若山に「早く止めに来んかい」と怒られた。

時代劇で衣装の着方が分からないと口にした役者を、3メートルくらい投げ飛ばしたこともある。それだけ真剣だったんです。
出典 若山富三郎 着物の着方を知らぬ役者を3m投げ飛ばした伝説(NEWS ポストセブン) – Yahoo!ニュース

『出る映画はすべて最後の作品と思って演る』がモットーで、遺作となった映画『王手』では、糖尿病で週3回の人工透析を受けながら迫真の演技を見せた。

緒形拳

緒形 拳(おがた けん、1937年7月20日 – 2008年10月5日)は日本の俳優。本名は緒形 明伸(おがた あきのぶ)。東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身。血液型はB型、身長173cm、体重70kg、趣味は絵手紙・水墨画。長男は緒形幹太、次男は緒形直人で共に俳優。

堅物で気真面目な性格であった。ある時、親友の津川雅彦から若い女性との合コンに誘われた際、参加するかしないかを真剣に悩み迷った末に「雅彦、オレやっぱりどうしても行くことができない」と思いつめたような声で断りの連絡をしたという。
出典 緒形拳 – Wikipedia

それを聞いた津川からは、「お前がそのことで悩んだのは大きな進歩だ」(=参加しないと思っていたが、悩んでくれただけでも大したものだ)と言われるほどだった。

映画の話をするのが大好きで、泉谷しげると共演した際、撮影の合間に盛り上がっていた。泉谷の撮影が先に終わり、翌日も撮影で会うから、と思って帰ったところ、「終わったらお前と話の続きをするつもりだったんだ!」と子供のように電話口で怒ったという。
出典 緒形拳 – Wikipedia

ドラえもんの大ファンであることを明かしており、ドラえもんファン向けの専門誌『ぼく、ドラえもん』12号でインタビューにも答えている。
出典 緒形拳 – Wikipedia

きっかけは映画を観に行った際に上映まで時間があったため、街をぶらぶらしていた時にゲームセンターにあったUFOキャッチャーにドラえもんのぬいぐるみがあり、可愛かったので試しにやってみると、一発で取れてからドラえもんが好きになった。しかし、ドラえもん以外のキャラクターは知らず、ドラミちゃんを「(ドラえもんの)彼女?」と勘違いしており、可愛いとは思わず、渡されたドラミちゃんのぬいぐるみを放り投げていた。ドラえもんの形や色が好きだという。

藤岡琢也

藤岡 琢也(ふじおか たくや、1930年9月4日 – 2006年10月20日)は、日本の俳優、声優。

兵庫県姫路市出身。身長165cm、体重71kg。

1969年から2004年までの35年間、サンヨー食品の「サッポロ一番みそラーメン」のCMに出演。
1990年よりスタートした『渡る世間は鬼ばかり』に、五人姉妹の父親である岡倉大吉役で出演。高視聴率番組となったため、その後は続編で十数年に渡って大吉役を演じて晩年の代表作となった。

「渡る世間」は庶民の生活の中にあったドラマなので、本当に存在していた家族のような錯覚さえしますよね。出演者も同じで、皆さん家族同様の付き合いだったそうですが、藤岡さんは、2006年2月に肺炎で入院し、2006年10月に慢性腎不全で亡くなるまで、岡倉ファミリーと一度も会わなかったそうです。
出典 藤岡琢也さん死の真相に長山藍子さん号泣 爆報!THE フライデー | 中高年のためのお役立ち情報サイト

藤岡さんが2006年肺炎のため突然番組を降板し、8ヶ月後亡くなるまですべての面会を断っていたのは、ある理由がありました。それは、藤岡さんの奥さんも、藤岡さん発病と同時期に末期の大腸がんが判明し、それをおして藤岡さんの看病していたためでした。
出典 藤岡琢也さん死の真相に長山藍子さん号泣 爆報!THE フライデー | 中高年のためのお役立ち情報サイト

奥さんは、抗癌剤治療を受けると、藤岡さんの看病ができなくなるからと一切の治療を拒否。自分の命より、夫婦で過ごせる最後の時間を選びました。そんな奥さんの状態を見越して、見舞客に失礼が当たらないようにと藤岡さんは面会謝絶にしたそうです。
出典 藤岡琢也さん死の真相に長山藍子さん号泣 爆報!THE フライデー | 中高年のためのお役立ち情報サイト

松田優作

松田 優作 (まつだ ゆうさく、1949年 (昭和24年)9月21日 – 1989年 (平成元年) 11月6日) は、山口県下関市生まれの俳優、歌手。
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。1970年代後半から東映セントラルフィルム作品、角川映画作品でアクションスターとして人気を博し、1980年代からは演技派としても認められるようになる。主演したドラマ『探偵物語』など、後進への影響も大きく、男気に溢れ情に厚く、その勇猛な人間性と卓越した演技力から、1980年代を通じてもっとも重要な日本の映画俳優の1人、カリスマと評されている。

店で打ち上げをやっていた時に、同じ店に来ていた他の客がバカにしたような口調で佐藤に「蛾次郎ー!」と、囃し立てると松田は激怒し本気でその客に殴りかかりそうになったという
出典 松田優作 – Wikipedia

佐藤蛾次郎は後年「優作ほど先輩を立てる役者はいなかった」と振り返っている。

19歳となった優作は、ある憧れの映画人の自宅前にやって来ると「なんでもします。門下生にしてください」と座り込みをはじめたというのです。その映画人こそが、黒澤明監督でした。優作は、黒澤監督の自宅前になんと3日間も座り続けました。
出典 SmaSTATION-5

しかし、黒澤監督は、その生涯で一人も弟子を取らなかったのです。結局、優作は黒澤監督に会うことさえできませんでした。この時、優作は友人に「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが、有名になっても、黒澤監督の映画だけには決して出んからな。いくら頼まれてもな」と語ったそうです。

1974年8月。ジーパン刑事が殉職する回の撮影が始まりました。今では有名なあの殉職シーン、実は最後のセリフは優作の希望もあって空白のまま撮影された。
出典 SmaSTATION-5

台本にはたった1行、「ジーパン撃たれる」とだけ書いてありました。「人間なんてかっこいいもんじゃない」。常々そう語っていた優作が考えた壮絶なるラストシーン。その撮影現場には、とてつもなく緊迫した空気が流れていたといいます。

1979年公開の『処刑遊戯』では、ハードなアクションシーンの撮影中に右ひざから骨が飛び出るほどの大ケガを負ったときも、「俺にかまうな」と撮影を続行。
出典 SmaSTATION-5

映画『野獣死すべし』では狂気に満ちた主人公を演じるため山篭りをし体重を10キロ減量、さらに奥歯を4本抜いたのです。また、高すぎる身長を嫌い、本気で足を10cm切ることも考えたといいます。
出典 SmaSTATION-5

植木等

植木 等(うえき ひとし、1927年2月25日〈戸籍上。実際は1926年12月25日〉 – 2007年3月27日)は、日本の俳優、コメディアン、歌手、ギタリスト、タレントである。

高度経済成長時代を象徴するコメディアンとして1960年代に一世を風靡し、数々のヒットギャグ、ヒット曲を放った。仲間内での愛称はボンさん、植木屋、植木やん。

映画やドラマで演じた役柄の性格とまったく異なり、自他共に認めるたいへん真面目な性格で、中尾ミエが「毎日同じおかずでも不満を言わないくらい」と例えるほどであったという。
出典 植木等 – Wikipedia

そんな真面目な性格であるから「スーダラ節」の楽譜をはじめて渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と真剣に悩んだ。
出典 植木等 – Wikipedia

父親に相談すると「どんな歌なんだ?」というので植木はスーダラ節を歌ってみた。あまりにふざけた歌詞に激怒されると思いきや、父は「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動した。理由を尋ねると、「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」と諭され、植木は歌うことをついに決意した。

「貧乏人の倅」を自称し、「どん底でも平気だ」と語っていた。成功前の貧乏時代から性格は非常に明るく、「私生活がわからなかった」という
出典 植木等 – Wikipedia

植木が出演していた生放送の『シャボン玉ホリデー』でのショートコントの最中のことであった。
 植木の付き人であった小松政夫が勘違いして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまった。植木はつい舞台に出てしまったのだが、当然周囲は植木の登場に唖然・・・その瞬間に植木は機転を利かせて「あ、お呼びでない?・・・こりゃまた失礼いたしました」とアドリブを放った。
出典 小松政夫が涙ながらに語った、植木等との師弟愛 悠々寛大/ウェブリブログ

これが大受けとなり、以後、毎回のように使われるようになった。
 このことについて植木は、番組関係者に「小松が間違えてね、あのギャグが生まれたのよ」、と言って回った。

このエピソードについて小松は、「聡明な植木が間違いをするはずがありません。私を売り出すために作ってくれたエピソードなんです・・・本当に感謝しています」と語っていた。しばし声が途絶え、ハンカチを目にしながら・・・
出典 小松政夫が涙ながらに語った、植木等との師弟愛 悠々寛大/ウェブリブログ

事実、植木はことあるごとに番組制作スタッフに話していた。「小松は面白い男だょ」「小松を使ってみてよ」と。小松の役者としての才能を見抜き、本人の志望する気持ちを察してデビューさせようと尽力したのであった。

川谷拓三

川谷 拓三(かわたに たくぞう、1941年7月21日 – 1995年12月22日)は、日本の俳優である。本名:仁科 拓三(にしな たくぞう)。愛称は拓ボン。高知県安芸市出身。左利き。

大部屋俳優から上り詰め、昭和を中心に活躍した名優の一人。

サム・ペキンパー監督が日本のテレビにゲスト出演している時に、泥酔して乱入し、「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と叫んだこともあるという。
出典 川谷拓三 – Wikipedia

長兄が癌を患い余命宣告を受けたが、長兄は鶴田浩二の大ファンだった。何とかに見舞いに来てもらえるよう両親は川谷に懇願するも、大部屋俳優が大スターに声をかけるなど決してできなかった。しかし病気に苦しむ長兄をなんとかしてやりたい両親の気持ちを慮った川谷は意を決して、会合で酒を飲んでいる鶴田の席へ行き、「自分の兄が死にそうなんです。兄は鶴田先生の大ファンなんです。どうしても死ぬ前に先生に会いたがっているんです。どうか兄に一目会って貰えませんでしょうか。お願いします!」と頭を下げると「ワシの顔見て、死んで行けるんならそれも供養や。行ってやるよ」と酒の席を中座して、長兄の入院する病院へ駆けつけた。鶴田と会う事のできた長兄は、数時間後に息を引き取ったが、死顔は安らかで満足そうであったという。

1972年『日本暴力団・殺しの盃』では冒頭の賭博場荒らしのシーンで、岩尾正隆と共にチンピラに扮し、長く映りたいがために、刺されても撃たれてもなかなか死なずにのたうち回る演技をした。
出典 川谷拓三 – Wikipedia

金銭感覚がゼロで、すぐ人に奢ってしまい、稼いだギャラも全部呑み代に消え、自分の生活が苦しくても人にお金を貸してしまうほどのお人よしだった。
出典 悪役・川谷拓三「お人よし人生」おカネないのに奢って貸して騙されてスッカラカン!残された貧乏妻はいま… <爆報!THEフライデー>(TBS系) : J-CASTテレビウォッチ

山城 新伍

山城 新伍(やましろ しんご、1938年11月10日 – 2009年8月12日)は、京都府京都市出身の俳優・司会者・タレント・映画評論家・映画監督。本名:渡辺 安治(わたなべ やすじ)。

フジテレビ系「アイ・アイゲーム」で伏字を「チョメチョメ」と表現し流行語になる。
出典 山城新伍 – Wikipedia

1992年1月に暴力団の組長の娘の結婚式で仲人を務めて、問題だとして集まった芸能レポーターに「父親がヤクザの娘は幸せになってはいけないのか」と反論した。
出典 山城新伍 – Wikipedia

やしきたかじんと山城新伍は、生前、犬猿の仲だった。
出典 毒舌が冴え渡った8月16日のたかじんのそこまで言って委員会 : かきなぐりプレス

小林昭二

小林 昭二(こばやし あきじ、1930年9月26日 – 1996年8月27日)は、日本の俳優、声優。
『ウルトラマン』のムラマツ隊長(キャップ)、『仮面ライダー』の立花藤兵衛役などが有名である。

ウルトラマンのムラマツキャップ役を演じるにあたって、黒部進ら共演者に「子供番組であるからといって、子供に媚びることはない。一般ドラマと同じように演じること」と諭したという。
出典 小林昭二 – Wikipedia

『仮面ライダー』に主演した佐々木剛は、大野剣友会も含め若手の多い現場で揉め事が起きなかったのは小林の存在によるところが大きかったことを語っている。
出典 小林昭二 – Wikipedia

「仮面ライダーシリーズ」では出演者のみならずスタッフからも「おやじさん」として親しまれていた。

蟹江敬三

蟹江 敬三(かにえ けいぞう、1944年10月28日 – 2014年3月30日)は、日本の俳優・ナレーター。本名同じ。

文学座所属の栗田桃子は長女、劇団青年座所属の蟹江一平は長男。
日本人俳優屈指のバイプレーヤーでも知られた。

『どうやって監督を裏切るか考えているんです』と話していた。つまり、監督が期待している以上の芝居をすることを心がけていた
出典 名脇役の蟹江敬三さん急逝 屈指の凶悪犯、「強姦の美学」…迫真の演技が“伝説”に – 芸能 – ZAKZAK

長嶋茂雄氏の大ファンで、「努力の跡をいささかも感じさせない。そこがいい」とかつて長嶋評を語っていた。
出典 「あまちゃん」祖父役から半年…蟹江敬三さん、胃がんで死去 (3/3ページ) – 芸能社会 – SANSPO.COM(サンスポ)

『名バイプレーヤー』って、1つのレッテルですよね。俳優にはいろんなレッテルがある。個性派、性格俳優、演技派、二枚目、今で言ったらイケメン。いろんな表現の仕方があるじゃないですか。そういう一切のレッテルからかけ離れた存在になりたいんです。レッテルを張りようのない俳優が理想。『俳優としか言いようがない存在』というのを目指している
出典 役者40年、初の映画主演/蟹江さん復刻1 – 芸能ニュース : nikkansports.com

インタビュー記事より抜粋

地井武男

地井 武男(ちい たけお、1942年5月5日 – 2012年6月29日)は、日本の俳優、タレント。

「チイチイ」の愛称で親しまれた。

「チイチイ」という愛称は、ダウンタウン司会の新春特番『ダウンタウンのハッピーニューイヤーンバカーン』(日本テレビ系)での罰ゲームにてパンダの着ぐるみを着て喫茶店に入店し、その際店内の呼び出し放送で「パンダのチイチイ様」と呼ばれたことがきっかけ。
出典 地井武男 – Wikipedia

大のブランコ好きで『ちい散歩』収録中でも見つけると必ず試し乗りし、同様に油揚げ・はんぺん・豆腐にも目がなく豆腐屋を見掛けると必ず立ち寄るほどであった。
出典 地井武男 – Wikipedia

地井武男さん達仲間が「哲ちゃんを紅白に」と有線などに「くちなしの花」をかけてくれるように頼んで回った
出典 渡哲也さんに関するエピソードなどがあれば教えてください。 – 先日のTV… – Yahoo!知恵袋

大河ドラマ「勝海舟」を病気で降板した渡哲也さんが、復帰後歌った「くちなしの花」。
結果「くちなしの花」はヒットして紅白歌合戦に出場し、1月に降板したNHKに年末にリベンジできたのでした。地井武男さんが「ちい散歩」の中で言っていました。

長門裕之

長門 裕之(ながと ひろゆき、1934年1月10日 – 2011年5月21日)は、日本の俳優。本名は加藤 晃夫(かとう あきお)。
日本を代表する俳優の一人。妻は女優の南田洋子、実弟は俳優の津川雅彦、父は沢村国太郎、母はマキノ智子、叔父に加東大介、叔母に沢村貞子、祖父には「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三、狂言作者の竹芝伝蔵、姪に女優の真由子をもつ。

交際していた南田洋子より自分のほうが年収が低いということに、“引け目”を感じていた。そのため長門は、自分の年収が南田洋子の年収より多くなるまでは南田洋子と結婚しないと決め、仕事に励んだ。長門が南田洋子と結婚したのは、自分の年収が南田洋子の年収を上回った1961年のことであった。
出典 長門裕之 – Wikipedia

出演した2時間ドラマを南田と見ていたら、偶然にもドラマに長門本人が手を出したことのある女優が全員出ていて、冷や汗が出たことを同郷出身の島田紳助に暴露され、ニヤニヤしながら「うんうん」と頷いていた。
出典 長門裕之 – Wikipedia

日本テレビ系『行列のできる法律相談所』に出演時のエピソード

長門さんが、弟で俳優の津川雅彦に「お前と洋子が岸壁に立っていて、どっちか(がけから)落とせっていわれたら、おれは迷わず洋子を落とす。それくらいおまえを愛している」と話し津川がうれし泣きした
出典 黒柳徹子が号泣、弔辞で長門裕之さんとの「徹子の部屋」でのエピソードを語る – シネマトゥデイ

翌日には「そんなこと言ったっけ? 二人共突き落とすと思うよ」と言って、みんなを笑わせた

石立鉄男

石立 鉄男(いしだて てつお、1942年7月31日‐2007年6月1日)は、日本の俳優。

コミカルで人情味のある、憎めない三枚目の役どころに独特の持ち味を発揮し、アフロヘアーと個性的な甲高い声・軽妙なセリフ回しでそのキャラクターを視聴者に強く印象づけた。

ラジオ番組のインタビューでは、自分がコミカルな俳優として世間に認知されていることを認める一方、他人をけなしたり差別したりすることで笑いを取ることを一貫して否定してきたことを明かしている。
出典 石立鉄男 – Wikipedia

芸能界では指折りの腕っ節の強さで恐れられていた。
出典 石立鉄男 – Wikipedia

コミカルな人物像や後述のトラブルとは逆に性格は非常にシャイでドラマの休憩中は喫煙場でずっと一人でタバコを吹かす、晩年のバラエティ出演にも消極的だったが杉田かおる(当時バラエティでのブレイク前)がセットが条件でと出演交渉を頼むと「俺が承諾すればお前(杉田)はでれるんだな?」と言って出演するなど義理堅い人でもあった。
出典 石立鉄男 – Wikipedia

自身の人生を振り返り「全盛期には5億から10億ぐらい稼いだのに、全部バクチで使い切った」と豪快なエピソードを明かしていた。
出典 石立鉄男 – Wikipedia

大滝秀治

大滝 秀治(おおたき ひでじ、1925年(大正14年)6月6日 – 2012年(平成24年)10月2日)は、日本の俳優・ナレーター。
2011年(平成23年)度文化功労者。名優の一人として舞台・テレビドラマ・映画・テレビコマーシャルと60年以上にわたり幅広く活躍。

「北の国から」で、役作りのため地元の農村を歩き回って住民からジャンパーや帽子を強引に借り追いはぎの大滝と恐れられた
出典 大滝秀治さんお別れの会に980人…倉本聰氏が別れの言葉 — スポニチ Sponichi Annex 芸能

「北の国から」の脚本を手掛けた倉本聰氏からは、「あなたは狂気の役者でした」と評されている。

20代で劇団「民芸」の創立に加わった1期生である。
しかし当初は「声が悪い」などの理由で、ほとんど役がつかない。無名の役者だった。
永六輔氏の『藝 その世界』によれば「四十八歳までは喰えなかった」と言っていたそうだ。
出典 75歳ごろまで「はな垂れ小僧」だった大滝秀治さん「もう駄目だと思ったり まだやれると思ったり」 : フリータイム・人生 まだ旅の途中【平蔵の独り言】

50歳前にテレビの連続ドラマに出演し、ようやく名前も知られるようになったのである。
それでも75歳ごろまではまだ、滝沢修や宇野重吉ら民芸の先輩たちから「叱られてばかりいた」と、 述懐している。まだ「はな垂れ小僧」だったというのである。
出典 75歳ごろまで「はな垂れ小僧」だった大滝秀治さん「もう駄目だと思ったり まだやれると思ったり」 : フリータイム・人生 まだ旅の途中【平蔵の独り言】

宇津井健

宇津井 健(うつい けん、1931年(昭和6年)10月24日 – 2014年(平成26年)3月14日)は、日本の俳優である。身長173cm、血液型はA型。東京府東京市深川区出身。(現在の東京都江東区出身)

温厚で気が優しいが根は熱血、といった役柄が多く、似たキャラクターを演じ続けるタイプであり、悪役を演じることは滅多になかった。
出典 宇津井健 – Wikipedia

長きにわたる芸能生活で、仕事に遅刻したことや休んだことは1度もなかった。
出典 宇津井健 – Wikipedia

座右の銘は「才能の器は小さい、努力の器は大きい」。
出典 宇津井健 – Wikipedia

俳優業については、「俳優が年齢に流されて年老いてゆくのは良くないことだ」「自分を常に発展途上にしておきたい」「役者は常に死ぬまで人に教わるもので、進歩しない役者は意味のない存在だ」と述べている。
出典 宇津井健 – Wikipedia

深夜のテレビの通販番組が好きで、健康関連のグッズをよく購入していたという。また、ジーンズは約40本持っていて、そのサイズは全て31インチだった。
出典 宇津井健 – Wikipedia

自宅にはトレーニングルームがあり、テレビ通販で購入したマシンが沢山置かれている。小柳ゆきのCDをかけて体を鍛えることが毎日の日課だった。
出典 宇津井健 – Wikipedia

ただ有酸素運動は嫌いだという。また、ドラマの収録時の合間には持参した鉄アレイで体を鍛えていた。

乗馬歴は60年に及び、乗馬技術のみならず馬の習性・乗馬用具にも造詣が深く、日本の俳優の中でも、屈指の馬術の達人の一人として挙げられている。
出典 宇津井健 – Wikipedia

乗馬のおかげで初主演を早々に得るなど、「役者としての幸運なスタートが切れたのも、ひとえに乗馬のおかげ」と語っている。映画・テレビドラマで乗馬のシーンでは愛馬を持ち込み撮影に臨むほどで、『武田信玄 (NHK大河ドラマ)』の第四回川中島の戦いでは、愛馬を駆っているシーンを観ることができる。

自身を切磋琢磨する方法の一つとして、ヒップホップを習っていたことがあった。月謝を払って講師と向き合うその緊張感を楽しんでいたという
出典 宇津井健 – Wikipedia

50歳で一時は1日60本吸っていたたばこを止め、60歳で飲酒も止めている。
出典 宇津井健 – Wikipedia

一時は米も食べず、タンパク質を摂るのも制限していたことがあった。「スケジュールや枠を作るなどして自分を律する」ということを好んでいたという。

藤田まこと

藤田 まこと(ふじた まこと、1933年4月13日 – 2010年2月17日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン。本名は原田 眞(はらだ まこと)。

陰がある役柄や必ずしも恰好がよく人生で成功を収めたわけではない人物を演じるのを好み、逆に成功譚は嫌いで、「出世していく男」「偉くなっていく男」を演じるのは「願い下げである」と述べている。
出典 藤田まこと – Wikipedia

その理由について藤田は、「成功者は成功する過程で他人を追い落とすなど人間らしいとはとても言えないような生き方をするものだが、芝居にするとそのような人間らしくない生き方が省略されたり強引に美化されるからだ」と述べている。

「人のセリフまで通して本を全部を覚えてしまう」というほどセリフ覚えがよく、セリフが出てこなくなった失敗はなかったという。
出典 藤田まこと – Wikipedia

俳優はある程度ミステリアスで、「何を考えているんやろ」「どんな奴なんやろう」と想像されるほうがいいという考えの持ち主であった。
出典 藤田まこと – Wikipedia

手の内を明かしたくないという理由からバラエティ番組にはあまり出演しなかった。藤田は「テレビでチャラチャラしてる人は芸人じゃない。芸を売ってる人じゃない。…呼び名はタレントでええ」とも述べている。

撮影において「こんなもんでええかな」と妥協してしまった際にはその作品をビデオに録画し、後で観賞する習慣があった。そうして録画された作品はビデオテープ100本分以上にのぼった。
出典 藤田まこと – Wikipedia

逆に「上手く行った」と思える作品は1本も録画しなかった。それらのビデオテープについて藤田は「この失敗作こそ僕の”財産”かもしれませんな。でも、ふつうの財産と違うのは、増やしてはならない財産であるところ」と述べている。

藤田にとって時間を守ることは「最低限の約束事」で、遅刻する人間のことは無視した。
出典 藤田まこと – Wikipedia

「耳の穴から指つっこんで奥歯ガタガタいわせたろうか」とのフレーズは藤田が作ったものとされる。
出典 藤田まこと – Wikipedia

結婚資金のなかった藤田は新居を購入するにあたり、新居のほか自らを担保に入れて家を購入した。
出典 藤田まこと – Wikipedia

結婚式と披露宴の費用は、それらの様子を収めた映像を1年間式場のテレビコマーシャルに使用させることと引き換えに、無料にすることに成功した。しかし、披露宴に招待した芸能人にはそのことが知らされておらず、勝手にコマーシャルに使われたと苦情が殺到した。
出典 藤田まこと – Wikipedia

最終的には中田ダイマルが「今回のカタに自分のところで一生ただ働きさせる」と仲裁して解決した。

「芸人は夢を売る商売。派手に遊ばな」という主義の持ち主で、しばしば高級クラブを飲み歩いた。
出典 藤田まこと – Wikipedia

渡辺プロダクション所属時には社長の渡辺晋よりもクラブからの請求書が多かったという逸話がある

東野英次郎

東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年9月17日 – 1994年9月8日)は日本の俳優、随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。

テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。

水戸黄門役が定着していた頃、普段着の東野に土下座する老人もいたという。1976年(昭和51年)9月6日に出演した『徹子の部屋』で、「ありがたいやら困るやらで恐縮しどおし」と発言している。
出典 東野英治郎 – Wikipedia

今では定番である水戸黄門の独特な笑いを最初に確立させた東野ではあるが、当初は納得できる笑いが確立できずに苦悩し、周囲に当たり散らすこともあったため、見かねた息子の東野英心が付き人となって支えたという逸話がある。
出典 東野英治郎 – Wikipedia

英心によれば、あの笑いを完成させるのに3年かかったという。

森繁久弥

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 – 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。
昭和・平成の芸能界を代表する国民的名優であり、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌手・エッセイストなど幅広い分野で活躍した。

黒柳徹子さんは、森繁さんが死去する3年前に最後に道端で会ったといい、「道に大きな黒い車があって、中をのぞいたら森繁さんだった。声をかけたら、おじいさんとは思えない力で私をぐいっと車の中に引きずりこんで、『ねえ、1回どう?』って。
出典 森繁久彌さん:「終生、誘われ続けた」と黒柳徹子がありし日しのぶ – MANTANWEB(まんたんウェブ)

私、60年前に初めてお会いした時から、最後まで言われ続けた」と一笑。「その時に『今度ね』って言ったら、『君は今度今度って言って、いつまでもダメじゃないか』って。(長く待たせて)『くしゃくしゃになったら僕、嫌よ』って。『私だって嫌ですよ』って言って別れたのが最後だった」と会場を笑わせた。

「私は才能がないのに、実力で合格したのはNHKアナウンサーだけだ。その後、一生懸命勉強した。人の三倍くらい働けば、バカにもチャンスを神が与えるだろう。」
出典 人生の秋に 森繁久弥はどう生きたか: nozawa22

「徹子の部屋」出演時の発言

萩原流行

萩原 流行(はぎわら ながれ、1953年4月8日 – 2015年4月22日)は、日本の俳優、タレント。本名は萩原 光男(はぎわら みつお)。2000年代以降は役者だけでなく、バラエティ番組などにも出演していた。

初期の俳優活動では2時間ドラマの卑劣な犯人役をすることが多かった。そのため、地方でのロケでは地元のお婆さんから石を投げられたことがあると『森田一義アワー 笑っていいとも!』「テレフォンショッキング」出演時に吐露した。
出典 萩原流行 – Wikipedia

大の猫好き。『クマのプーさん』が大好きで、本人曰く「パジャマもプーさん」であるという。
出典 萩原流行 – Wikipedia

神奈月にはものまねされているが、萩原自身も逆に神奈月と武藤敬司のものまねしたことがあり、これを見ていた武藤も「誠意には誠意で」と言って、武藤が萩原のモノマネを披露したことがある。
出典 萩原流行 – Wikipedia

愛川欽也

愛川 欽也(あいかわ きんや、1934年(昭和9年)6月25日 – 2015年(平成27年)4月15日)は、日本の俳優・声優・タレント・司会者・ラジオパーソナリティ・エッセイスト。本名は井川 敏明(いがわ としあき)。愛称はキンキン。

1975年、満艦飾の長距離トラック運転手を主人公とした映画を企画し持ち込む。これが東映のドル箱シリーズとなった『トラック野郎』。
出典 愛川欽也 – Wikipedia

菅原文太と共演し相棒「やもめのジョナサン」こと松下金造役を演じる。これが空前の大ヒットとなり1979年までに全10作が製作・公開される。

何事も早とちりな行動から大のおっちょこちょいな面がある。
出典 愛川欽也 – Wikipedia

1996年まで放送されていた『なるほど!ザ・ワールド』にて、コンビを組んだ楠田枝里子との身長差をカバーするために、楠田が椅子に掛け愛川が立ったまま、というスタイルが編み出される。
出典 愛川欽也 – Wikipedia

またスタッフから自由にやっていいと言われたため、女性ゲストにひいきをすることもあった。特にアグネス・チャンには答えまで言うことがあり、投書で抗議されたこともある。

安岡力也

安岡 力也 (やすおか りきや、1947年7月19日 – 2012年4月8日) は、日本のロックヴォーカリスト・キックボクサー・俳優・タレント。シャープ・ホークスのボーカル。

祖父はシチリアンマフィアで、イタリア人の父と日本人の母の間にジェノヴァで生まれる。父親もマフィアで6歳のとき、父の死亡により日本へ帰国。
出典 安岡力也 – Wikipedia

『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)の1コーナーである「タケちゃんマン」に出演中、せりふの「ホラ貝」を「ホタテ貝」と言い間違えたことをきっかけに「ホタテマン」として出演。上下関係に厳しく強面の風貌と裏腹に、シャレを理解しバラエティ番組などでイジられていた。
出典 安岡力也 – Wikipedia

王様ゲームの開発者
出典 安岡力也 – Wikipedia

原田芳雄

原田 芳雄(はらだ よしお、1940年2月29日 – 2011年7月19日)は、日本の俳優。

東京府東京市足立区(現:東京都足立区)出身。ギルドB所属。紫綬褒章はじめ、俳優として各種表彰受賞。

原田の仕種や台詞廻しに影響を受けた松田優作は、一時期その一挙手一投足を研究し、模倣したとも言われる。
出典 原田芳雄 – Wikipedia

大手ホテルで花屋のバイトもしていたこともあり、長嶋茂雄の結婚披露宴の飾りつけを行っている。
出典 原田芳雄 – Wikipedia

乗る・見る・作ること全てにおける大の鉄道ファンとしても知られ、同じく鉄道ファンであるタモリが司会を務める『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演するたびに鉄道ネタで盛り上がるほど思い入れは深かった(総出演回数は15回)。
出典 原田芳雄 – Wikipedia

今井雅之

今井 雅之(いまい まさゆき、1961年〈昭和36年〉4月21日 – 2015年〈平成27年〉5月28日)は、日本の俳優・演出家・脚本家・タレント・エッセイスト。兵庫県城崎郡日高町出身。代表作は自身が「自分の魂」と形容している特別攻撃隊が主題の演劇・映画『THE WINDS OF GOD』や、自身の出身地で撮影した初監督映画作品『SUPPINぶるうす ザ・ムービー』など。最終所属先はオスカープロモーション。

兵庫県立豊岡高等学校卒業後、俳優になろうと志すが、自衛官の父に俳優になりたいのであれば自活するよういわれ、1980年4月陸上自衛隊に一般曹候補学生で入隊。同年12月滋賀県今津町の第3師団第3戦車大隊(今津駐屯地)に配属。上官に俳優になりたいため辞めたい旨を告げ、「自衛隊は俳優養成所ではないぞ」と叱られる。
出典 今井雅之 – Wikipedia

料理が得意。売れない時代にラ・ボエム1号店(原宿店)に7年間勤める。自衛官時代の癖で大声で客の注文を復唱し、店長の顰蹙を買い調理に回される。
出典 今井雅之 – Wikipedia

1982年12月に東京 – 大阪間のマラソンを行った。冬にもかかわらず、野宿をした。一週間で完走することを目標にしていたが10日かかった。
出典 今井雅之 – Wikipedia

長時間、連日走っていたため、途中で足を痛めてしまったが、自衛隊時代の上司に「もし足が壊れたらどうやって治すか。走れば治る!」と言っていたのを思い出し、止まらず走ってみると、走っている最中だけではあるが本当に痛みが収まったという。

1983年6月、奥多摩の山で塩とナイフだけで、一週間の野宿を行った。梅雨の時期ということもあり、食料が全くなかったため、木の根、蜘蛛、蟻、カエルを食べた。それだけでは当然空腹を満たすことは出来ず、あまりの空腹のため何度も腹痛が起こり、痛みに耐えられなくなり気絶した。
出典 今井雅之 – Wikipedia

ハイキングコースを歩いていた時、弁当が捨ててあったのを拾って食べた。その弁当のご飯はネバネバしていてカビも生えていたが、感動するほど美味しく、特に海老の天ぷらの尻尾は「この世にこんなうまいものがあるのか。」と思った。このサバイバルで、まともな物を毎日食べられるありがたさを身を持って知った。ちなみに、入山前に70kgあった体重は下山後58kgまで落ちたが、すぐに元の体重に戻った。

1985年2月の北海道で稚内 – 函館を徒歩で横断することに挑戦した。4 – 5日不眠不休で歩き、吹雪に襲われることも多かった。途中で意識を失って行き倒れになったところを警察に助けられた。その後、何度も意識を失い幻覚を見ながらも函館に辿りつけた。最終的に10日かかった。
出典 今井雅之 – Wikipedia

阿藤快

阿藤 快(あとう かい)は、日本の俳優・タレントである。旧芸名は「阿藤 海」、本名は阿藤 公一(あとう こういち)。神奈川県小田原市出身。舞プロモーション → ボニート合同会社 (Bonito LLC) 所属。血液型A型。

小田原は阿藤さんの出身地で、生前は「小田原ふるさと大使」を務め、毎年5月には「北条五代祭り」に参加。故郷をこよなく愛した。
出典 「龍馬みたいに」亡くなった阿藤快さん 競馬好き“万馬券”エピソード (東スポWeb) – Yahoo!ニュース

大の競馬好きで、これまで幾度となく万馬券を的中させた。
出典 「龍馬みたいに」亡くなった阿藤快さん 競馬好き“万馬券”エピソード (東スポWeb) – Yahoo!ニュース

親交のあった芸能プロ関係者は「レース展開を読むというよりも、暦や色、六曜の法則を大事にしていた。それでバシバシ当たるから驚いた」と明かす。

気さくで謙虚な人柄から芸能界で最もいい人や裏表のない芸能人として名前が挙がることもある。
出典 阿藤快 – Wikipedia

渥美清

小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。
出典 渥美清 – Wikipedia

欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。
出典 渥美清 – Wikipedia

“渥美”は愛知県の渥美半島から採ったとされる。

「寅さん」の演技で見せる社交性のある闊達さとは対照的に、実像は自身公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。
出典 渥美清 – Wikipedia

「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。そればかりか、渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかったため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。

山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。
出典 渥美清 – Wikipedia

高倉健

高倉 健(たかくら けん、1931年〈昭和6年〉2月16日 – 2014年〈平成26年〉11月10日)は、日本の俳優・歌手。愛称、健さん。
福岡県中間市出身、身長180cm、体重71kg、血液型はB型。
高倉プロモーション所属。1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。
出典 www.amazon.co.jp

礼儀正しい人物であり、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う。
出典 高倉健 – Wikipedia

基本的に本番は1テイクしか撮らせない。
出典 高倉健 – Wikipedia

これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。

健康チェックを行い、朝食ではミューズリーやグラノーラなどのシリアルにプレーンヨーグルトをかけたものを常食とし、毎日しっかり摂ることで体のリズムを整える。
出典 高倉健 – Wikipedia

体型を維持するため、大好きな甘い物も我慢し、夕食まで殆ど食べない生活を続けており、ウオーキングも欠かさず行い、ウエストも体重も何十年も維持し続け、細心の注意を払ってきた。

完全なオフの期間を含めて都内にいる時にはほぼ毎日、40年来懇意にしている港区高輪にある理髪店に通い、髪を切っている。
出典 高倉健 – Wikipedia

渡瀬 恒彦

作品のアクションシーンでは代役を立てることを好まず、基本的にスタントは自分自身で演じてきた。
出典 渡瀬恒彦 – Wikipedia

1976年(昭和51年)の『実録外伝 大阪電撃作戦』では走り出す車のドアに摑まりそのまま引きずられたり、同年の『狂った野獣』、『暴走パニック 大激突』でのカーアクションシーンは自ら運転し、1977年(昭和52年)の『北陸代理戦争』ではジープで転倒して下敷きになり、片足を失いかけるほどの大怪我を負ったこともある(作品は降板、代役は伊吹吾郎)。

数多くの武勇伝があり、
テレビ出演した東映の俳優仲間たちもこぞって
渡瀬恒彦が喧嘩が強いことを挙げている。
出典 渡瀬恒彦の喧嘩が最強と言われる裏話と理由は? | CitizenJournal

若い頃にかなりの乱暴者として
有名であった安岡力也と喧嘩になった時は、
とある駐車場で圧倒的な強さで叩きのめしたことは知られている。
出典 渡瀬恒彦の喧嘩が最強と言われる裏話と理由は? | CitizenJournal

他にも

・松田優作と喧嘩になったときは秒殺でKO。

・岩城滉一をボコボコにしたことがある。

・ガッツ石松には『恒(ツネ)さん。』と呼ばれ、喧嘩が強いと言われる他芸能人が出てくると、『恒さんに比べれば大したことがない』と言わしめる。

・芸能界のドン・梅宮辰夫から喧嘩は渡瀬恒彦が最強とお墨付きを得ていた。

津川雅彦

津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年1月2日 – 2018年8月4日)は、日本の俳優、映画監督、芸能プロモーター、評論家。
京都府京都市中京区出身。別名義であるマキノ 雅彦(マキノ まさひこ)は映画監督をする際に名乗っていた。芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務めた。
出典 www.aflo.com

60歳を越えても穴開きジーンズといったグランジ・ファッションを好んでいた。
出典 津川雅彦 – Wikipedia

「合コンしないで何をやる」が口癖となるほどの合コン好きとなった。
出典 津川雅彦 – Wikipedia

合コン仲間には奥田瑛二、明石家さんま、高橋克典、宍戸開らがいた。

趣味はメールで、絵文字を好んでいた。

自身はテレビを主要な仕事の場としていながらも、「テレビは諸悪の根元。思考停止装置」「毎日茶の間に入り込み、コマーシャルを見せて商品を売る訪問販売だ」と、テレビとマスコミを強く批判している。
出典 津川雅彦 – Wikipedia

固定電話を使った世論調査に対しても「今時、固定電話を置く家庭は茶の間のテレビで低俗文化の洗脳を受けている層が多かろう」と主張している

大杉漣

大杉 漣(おおすぎ れん、1951年〈昭和26年〉9月27日 – 2018年〈平成30年〉2月21日)は、日本の俳優、タレント。
本名は大杉 孝(おおすぎ たかし)。
身長178cm、体重72kg。血液型はB型。
ザッコ所属。
長男は写真家の大杉隼平。
異名は「300の顔を持つ男」。
出典 www.amazon.co.jp

若い映画製作者への協力もしていた。当時は新潟の一高校生にすぎなかった田卷源太監督による企画提案を受け、アマチュア自主製作短編映画『黒いカナリア』の主役として少ない報酬で出演したり、早稲田大学と慶應義塾大学の学生が中心となった自主制作映画『Mogera Wogura』へも出演。
出典 大杉漣 – Wikipedia

役柄の数だけ眼鏡があるというほど眼鏡に関してはこだわりがあり、自宅に200本以上所有していた。
出典 大杉漣 – Wikipedia

自己の出身地徳島県をホームタウンとするJリーグ・徳島ヴォルティスの熱狂的なファンで、チームがプロ組織化する前身の大塚FC時代から熱心に応援していた。
出典 大杉漣 – Wikipedia

有名人となってからは招待券や特別席を提供されることも多かったもののそれを受け取ることはなく、あくまでプライベートで応援しているからと、熱狂的なファンが集うゴール裏のチケットを自分で取り、関東圏で行われる試合には、バスや電車に乗りひとりで訪れ、時には立ちっぱなしで応援している姿が目撃されていた

梅宮辰夫

梅宮 辰夫(うめみや たつお、1938年3月11日 – 2019年12月12日)は、日本の俳優・タレント・司会者・実業家。
身長174cm、血液型はA型。
所属事務所は株式会社グッデイ(東京・赤坂)。
娘はモデル・タレントの梅宮アンナ。
愛称は「辰兄(にい)」「辰っちゃん」。

特技はライフルと剣道で、高校時代には剣道部の初代主将も務めた。
出典 梅宮辰夫 – Wikipedia

実業家・料理家としての才能にも長けており、「梅宮辰夫漬物本舗」「梅辰亭」といったブランドのフランチャイズチェーンや、名古屋で「梅宮辰夫の炭焼き家 炎園」などの事業も展開している。
出典 梅宮辰夫 – Wikipedia

料理にかける熱はかなりのものがある。車両盗難の被害に遭った際の記者会見では「ベンツはいいから(調理器具が収まった)クッキングボックスだけは返してくれ」と訴えていた。
出典 梅宮辰夫 – Wikipedia

その後ベンツは発見されたが、逆にクッキングボックスは持ち去られていた。

サンテレビジョンで放送される釣り番組『ビッグフィッシング』への出演を希望したことがあると言われている。
出典 梅宮辰夫 – Wikipedia

山城新伍と梅宮辰夫の友情は40年以上にも及び、生き残ったほうが相手の葬儀委員長をするという約束までしていた。
出典 梅宮辰夫と山城新伍の友情、性病秘話!若い頃が破天荒すぎ!

山城新伍の葬儀は密葬でしたが、後日行われた「山城新伍さんを偲ぶ会」の発起人となった梅宮辰夫は、盟友との生前からの男の約束をきっちり果たしました。

宍戸錠

日本の俳優・タレント・司会者。
血液型はB型。
宍戸錠事務所所属。
愛称は「エースのジョー」。
出典 www.aflo.com

1956年にトレードマークとなる豊頬手術を受ける。本人は「失敗だった」と述懐するが、これを機に「アクの強い役=悪役」への転向を見事に果たした。豊頬の際に注入された異物(オルガノーゲン)は2001年に摘出手術で取り除いた(摘出までの過程はテレビ放送され、話題となった)。
出典 宍戸錠 – Wikipedia

地方ロケでは深夜まで飲み明かすなど酒豪としても知られており、酒の臭いをさせて現場に現れたこともあった。撮影の合間に飲食店に入ると、まずビールを注文し「公務員以外は仕事中に飲んでいいんだぞ!」と語って周囲を圧倒。
出典 宍戸錠さん 酒と女性にまつわる豪快伝説 「世界3位」と胸を張る|au Webポータル芸能ニュース

女性については「1300人以上と関係を持った」と豪語し、この人数については「世界3位」などと胸を張っていたという。
出典 宍戸錠さん 酒と女性にまつわる豪快伝説 「世界3位」と胸を張る|au Webポータル芸能ニュース

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